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武蔵野航海記

武蔵野航海記

靖献遺言

靖献とは自分の信念を述べることです。遺言はここでは死ぬ前の最後の言葉といったニュアンスです。

八人の人物が死ぬ前に詠んだ詩を最後に紹介しているので、このような名前を付けたのです。

浅見絅斎はこの本でチャイナの正義を命がけで守った八人のチャイニーズの模範的な行動を書き、読者である日本人を感化しようとしたのです。

第一巻は戦国時代の楚の屈平です。

一般には屈原(くつげん 前343~前278)の名で日本人にも知られています。

彼は楚の王族でなかなかの名門の生まれです。

戦国時代のチャイナは七つの国が互いに争っている状態でした。

楚は南方の大国でしたが、屈原の頃は勢力が衰えていました。

このころ隣国の秦は商鞅の改革で急速に国力を増し、他の六国を圧倒し始めていたのです。

屈原は対秦強硬派で、王に秦を警戒するように説いきましたが受け入れられず反対派に失脚させられてしまいました。

そして秦に広大な領土を奪われ王は秦に拉致され、最後には首都が秦軍により陥落してしまいました。

楚の将来に絶望した屈原は、石を抱いて汨羅(べきら)という川に入水自殺してしまいました。

死ぬ前に「離騒」という詩を残しました。これが屈原の遺言です。

王に疎んぜられて失脚しても最後まで国を思っていた屈原は幕末の志士たちを感動させました。

西郷隆盛は薩摩藩主の実父である島津久光に嫌われ、沖永良部島に流されてしまいました。

隆盛は島流しされた自分と屈原を重ね合わせた詩を詠んでいます。

また長州の高杉晋作も藩当局に嫌われ監獄に入れられてしまいました。

そのときに下記のような詩を書いています。

君見ずや死して忠魂となる菅相公
霊魂なほ在り天拝の峰
又見ずや石を懐きて流れに投ず楚の屈平
今に至るまで人は悲しむ泪羅の江
古より讒間、忠節を害す
忠臣、君を思ひて身を思わず
われまた貶謫幽囚の士
二公を憶起して涙、胸を潤す
恨むをやめよ空しく讒間のために死するを
おのずから後世、議論の公なるあり。

第二巻は蜀の諸葛亮(しょかつりょう)です。

彼はむしろニックネームの孔明(こうめい)で知られています。

あの諸葛孔明です。

彼は1800年前、後漢が滅んだあと魏、呉、蜀の三国が天下を争った三国時代のヒーローです。

諸葛一族は当時のチャイナでは名族で、一族には魏や呉で高官を務めている者もおり、豊富な人脈を持っていました。

孔明もその気になれば曹操(魏の創設者)や孫権(呉の創設者)が喜んで高官に任命したはずです。

しかし孔明は彼らに仕えずに田舎で静かに暮らしていました。

このときに劉備玄徳が現れます。彼は孔明の評判を聞いて是非自分に仕えて欲しいと頼みに孔明の家に出向きました。

三回目にやっと孔明に会えたのですが、このときに孔明は劉備に仕えることを承知します。ここから「三顧の礼」ということわざが生まれました。

劉備玄徳は漢の皇室である劉氏の一族でした。

彼が青年の時に黄巾の乱という大反乱が起きたので、後漢の朝廷は義勇軍を募りました。

このときに劉備は関羽や張飛といった豪傑を連れて少人数ではありますが義勇軍を組織し政府軍に所属して戦いました。

後漢の朝廷の呼びかけに応じて義勇軍を組織した実力者達は反乱が鎮圧された後、各地に割拠してしまいました。

そして後漢の朝廷は名目的に存在するだけになってしまいました。

これらの群雄の中に後に魏を建国する曹操や呉を建国する孫堅がいました。

孔明と会ったときの玄徳はまだ確固とした領土がなく他の群雄たちの客将というべき存在でした。

毛並みの良さと人柄の良さで、共に黄巾の賊を相手に戦った仲間である群雄達の評判が良かったのです。

しかし自分の根拠地を持たなかったので、とても天下の名士をリクルートできる立場にはいませんでしたが、あえて孔明に合おうと思ったのです。

孔明は玄徳に会ったとき、今にも消えそうな漢の皇室を再興する意思があるか否かを確認します。

そして玄徳が他の群雄と違ってその意思を持っていると知って、仕えることにしたのです。

孔明は後漢の皇室だけがチャイナの正統な支配者だと信じていたので、それを再興する意思のある英雄にしか仕える気はなかったのです。

このとき孔明は玄徳に「天下三分の計」という長期戦略を提言します。

北と南はそれぞれ曹操と孫権が強固な地盤を築いてしまっているからそこを奪うのは無理です。

そこでまだ支配権がはっきりしていない奥地の蜀を領有しそこを拠点にして天下を再統一しようというプランです。

孔明の有能さにより劉備は蜀を支配することが出来、北は曹操の魏、南は孫権(孫堅の息子)の呉、西の山奥は劉備の蜀と三国が鼎立することになりました。

この状態のときに曹操の息子が漢の皇帝を脅迫して禅譲を受け、魏を建国しました。

魏など認めない孫権は自分も皇帝となりました。

劉備は自分が後漢の皇室の一族であることから後漢を引き継いだとして後漢の皇帝として即位しました。

チャイナで正統な王朝とは何かということに関しては意見が分かれています。

道徳的に優れた聖人が広い領域を支配しているというのが前提になっています。

一旦チャイナ全域を支配したあと衰えて地方勢力になってしまった場合に意見が分かれるのです。

チャイナ全土を支配する王朝が無くなったらそこで正統は一旦途絶えるという説があります。

三国時代は魏・呉・蜀と別れていますからどれも正統ではないということになります。

強いて言えば一番広い領域を支配していた魏が正統になります。

一方朱子学では、一旦チャイナ全土を支配した王朝は勢力が衰えても完全に消滅するまでは正統だと考えます。

この立場からすると、後漢は名目上でも存在していますから正統です。

その本家が絶えたあと分家の劉備が後を継いだわけですから蜀が正統になります。

魏や呉を認めず漢を正統としてその再興を望んでいた孔明は朱子学の優等生です。

浅見絅斎は朱子学者ですから、孔明を「靖献遺言」に載せて日本人にも模範とするように仕向けたのです。

劉備が亡くなった後、その息子が蜀の皇帝となります。

すこし足りない男だったらしく、劉備は死ぬ間際に孔明に「息子がどうにも使い物にならなかったら孔明先生が息子に代わって蜀の皇帝になれ」と言い残しています。

劉備の言葉に感激はしましたが、孔明は正統を重んじますから自分が皇帝になろうとは考えませんでした。

そして正統な跡継ぎである劉備の息子を主君とし、劉備の方針である天下統一に向け必死の努力をします。

蜀は三国の中で一番弱小で魏との差は開くばかりだったので、孔明は自分が生きているうちに魏を滅ぼそうとして出撃をします。

そのときに劉備の息子に今回の軍事行動の主旨を報告したのが「出師表(しゅっすいのひょう)」です。

曹丕(曹操の息子)の魏は正統でないからそれを滅ぼして、正統な蜀がチャイナを再統一するべく出撃するのだという主張です。

この「出師表」は悲壮な決意を述べた名文です。

浅見絅斎はこの「出師表」が孔明から後世への遺言だと考えたのです。

第三巻は晋の陶潜です。

彼も陶淵明(とうえんめい 365~427)の名前が通っており、一般的には平和な詩人と思われています。

ひいおじいさんが晋の名臣で、淵明自身も晋に愛着を持っていました。

小地主で自分でも耕して生活していました。

生活のために田舎の学校の校長先生になったり軍隊に勤務したりしています。

田舎町の町長になって80日経った時に、上級の役所から監察官が来ることになりました。

そのときに自分の部下から礼服を着て出迎えたほうがいいと言われ、僅かな俸給のために若造に頭を下げるのがいやになって辞職をしてしまいました。

そのときに作った詩が「かえりなんいざ田園まさに荒れんとす」という有名な「帰去来の辞」です。

勤務態度は良くなかったのですが、とにかく宮仕えはしていました。

ところが劉裕という軍閥が晋を滅ぼし、宋を建国してしまいました。

劉裕から自分に仕えるようにという勧誘が淵明にもありましたが、彼は宋には絶対に仕えようとしませんでした。

淵明は晋が正統な王朝であり、宋王朝を認めなかったからその役人にもならなかったのです。

淵明は「読史述」という詩を作りました。その中に「夷斎」という章があります。

これが淵明の遺言です。短いので下記します。

二子国を譲り 海隅に相将ふ 天人命を革め 景を絶ち窮居す
菜薇高歌 黄虞を慨想す 貞風俗を凌ぎ ここに惰夫を感ず

三千年以上前のチャイナの大名に三人の息子がいたのですが、父親が三男を愛していたので父が死んだ時、長男は三男に後を継がせようとしました。

長男と三男はお互いに譲り合って国を逃げ出し海岸に逃れました。

この二人の名前が伯夷、叔斎なので合わせて夷斎です。

その後二人は周の文王に仕えました。

文王が死に息子の武王が天命を受けて殷の紂王を討とうとしました。革命です。

伯夷と叔斎は殷の紂王が正統な支配者だからといって武王が放伐をするのを止めようとしましたが、聞かれませんでした。

そこで二人は、周の穀物を食べてはならないと考えて、山に隠れ薇(わらび)を採って食べ、黄虞という昔の聖人を偲んで歌を歌っていました。

ある者が「今は全土が周の領土になったのだから、あわびも周のものだぞ」と余計なことを言いました。

そこで二人はわらびも食べられなくなり餓死したのです。

淵明は自分を伯夷と叔斎に重ね合わせ、宋を認めないから仕えないという気持ちを詩に込めたのです。

儒教ではこの二人の態度も立派だとしています。

一方で悪逆な殷の紂王を武力で放伐し革命を起こした武王も聖人です。

儒教は政治的な哲学ですから大勢は武王を評価しており、この二人はほんのエピソードでしかありません。

前にも書いたように浅見絅斎は日本の正統な支配者は天皇家だけであるとして、武力による王朝の交代(湯武放伐による革命)を認めていません。

そこでエピソードでしかない伯夷と叔斎の話をクローズアップしようとして、靖献遺言にこの話を載せたのです。

第四巻は唐の顔真卿です。

顔真卿(がんしんけい 709~785)は唐代の能書家として有名です。

彼は玄宗皇帝の時代の人で、安禄山が反乱を起こした時は平原の太守(軍司令官)でした。

安禄山が反乱を起こしそうだと気が付いて城壁を修理して戦いに備え反乱軍と力戦しました。

反乱鎮圧後も治安がなかなか回復せず、強大な力を持つ節度使を国内の要地にも置くことになってしまいました。

そして節度使の李希烈が反乱を起こし皇帝を名乗ったので、宰相は説得にいく仕事を顔真卿にさせるように皇帝に上申しました。

反乱鎮圧後、顔真卿は言いにくいことも直言して時の宰相に嫌われていましたので、顔真卿が反乱軍に殺されれば良いと考えての人事でした。

顔真卿は殺されると分っていても君命である以上避けるべきでないと考え、李希烈のところに出向きました。

李希烈は顔真卿を自分に仕えさせようとして自分のところに留めて返そうとはしませんでした。

そのうちに李希烈の部下が顔真卿を利用して唐の朝廷に帰順しようという動きが出てきました。

そこで顔真卿を本拠地である蔡に移すことになりました。

そこで彼は「移蔡帖」を書きました。これが彼の遺言です。

「自分はやがて殺されるだろうが、これは天命であってどうしようもない。

天の目は善悪是非を明らかに見ているから李希烈はやがて滅びるし唐の皇室は滅びない」という内容です。

顔真卿の態度は日本人にも違和感がないと思います。

しかし第四巻で付録として書かれている張巡の行動を日本人は素直に受け入れられないと思います。

安禄山の乱のとき、張巡は雍丘という町の守備隊長でした。

数万の反乱軍が城を包囲したので、籠城軍の食糧が無くなってしまいました。そこで張巡は自分の妾を殺して部下に食べさせたのです。

その後城内の男女を全部食べてしまい、最後に残った400人の守備隊は反乱軍と戦って全滅しました。

チャイナでは戦いの時に食糧がなくなると人間を食べることは普通に行われています。

また平和な時でも人肉は市場で売っています。

文化大革命のときの体験記を読んでいて、人肉入りの肉饅頭を買って食べるシーンに何回か出会いました。

浅見絅斎は正統な支配者に対する忠誠のために自分の愛妾まで犠牲にした張巡を褒めたかったのでしょう。

しかし日本人は余りの残酷さに気味が悪くなったのだと思います。

顔真卿は幕末の勤皇の志士にも有名で賞賛されましたが、張巡に関してはほとんど話題になっていません。

第五巻は宋末から元の時代の文天祥です。

文天祥(ぶんてんしょう 1236~1282)は20歳で高級官僚登用試験である科挙でトップ合格した秀才でした。

モンゴル人の建てた元の軍隊が宋の首都臨安に迫ってきたので、文天祥は義勇兵を募って都に救援にやってきました。

真剣になって宋を助けようと思って都にやってきたのですが、朝廷では元に降伏する話が進んでいました。

このころの宋はもはや先が見えていたので、文官も武官も多くが朝廷から逃げ出していたのでした。

宋の宰相は元の司令官であるバヤンと降伏交渉をするために使者を派遣したのですが、元では宰相が相手でなければ交渉しないと言ってきました。

そこで幼い皇帝の祖母である太皇太后は元に降伏すべく、文天祥に宰相の肩書きを与えて交渉に行かせました。

しかし文天祥は宋が正統な王朝であることを主張するだけで降伏の交渉をしないので、元のバヤンは彼を宋に帰してはまずいと思い、元の都である大都(北京)に護送しました。

その間に太皇太后は幼い皇帝を連れて元に降伏しました。

文天祥のほうは護送中に脱走し、福州の亡命政権に仕えました。

この亡命政権も潰れ最終的に宋が滅びた時、文天祥は服毒自殺を図りましたが死ねませんでした。

大都に連行された文天祥は幽閉されました。

元の皇帝フビライは文天祥を高く評価し何とか自分に仕えさせようとしましたが、彼は承知しませんでした。

元の朝廷では文天祥を死刑にしようとする意見と釈放しようという意見が対立していましたが、生きていては反乱軍の求心力になるという意見が勝って死刑と決まりました。

大都で幽閉中に作った「正気の歌」が彼の遺言です。

彼が幽閉されていた牢獄は狭く湿っていて湿気や悪臭などの七つの気が充満していました。

彼はこの牢獄に二年間幽閉されていましたが、病気にかかりませんでした。

それは「正気」に守られていたからだというのです。

「正気」とは天地にみなぎっている公明で純粋なもので、チャイニーズの道徳をエネルギーにしているものです。

そして国が困難に直面する時は、忠臣の不屈の節義となって現れるというものです。

幕末の勤皇の志士たちに文天祥は絶大な人気があり、彼らはこの「正気の歌」を詩吟などで盛んに歌っていました。

吉田松陰や水戸勤皇党のリーダーである藤田東湖は、この歌を真似して「正気の歌」を作っています。

また日露戦争で戦死し「軍神」となった広瀬中佐も正気の歌を作りました。

第六巻は宋末から元の時代の謝枋得です。

謝枋得(しゃぼうとく 1226~1289)は科挙の一次試験ではトップでした。

しかし皇帝が行う最終試験で時の大臣や宦官を大いに非難したために大幅に順位を下げられてしまいました。

元が攻めてきた時、数千人の義勇軍を組織しました。しかし派閥争いに巻き込まれて罷免されてしまいました。

その後また任官し部隊長として元軍と戦って破れ、家族も元軍に捕まってしまいました。

彼は乞食姿をして母を連れて逃げてしまいました。そして町で占い師をして細々と暮らしていました。

宋が滅びたあと元の皇帝フビライは人材を求めていて、謝枋得の名前を知りリクルートしました。

枋得が元に仕えることを承知しないので、とうとう元の都に護送されてそこでも元に仕えるように説得されました。

そこで枋得は絶食して死んでしまったのです。

元に仕えなかった理由として、枋得はいくつかの理由を挙げています。

老母や妻子の本葬が終わっていないからというのです。

チャイナは宗族の利益を最優先する社会ですから、親や家族の葬式を済ましいていない間は君主に仕えることも出来ません。

先に枋得は元と戦って敗れたあと敵前逃亡して乞食姿になり生き延びたのも老母を養うためでした。

また自分はまだ元に降伏していないとも主張しています。

宋の皇帝の祖母である太皇太后が独断で元に無条件降伏したことを認めていないのです。

枋得は太皇太后を非難しているのではありません。

戦乱に苦しむ民を救うために無駄な抵抗をやめた態度を評価しています。

しかし枋得は太皇太后という個人に仕えているわけではなく、宋の皇室である趙一族に忠誠を誓っているわけでもありません。

天から地上の政治を命令された正統な政治体制という思想に忠誠を誓っているのです。

そして人間というよりは動物である夷狄のモンゴルが建てた元を絶対に認めていないのです。

チャイナでは皇帝は道徳的でなければなりません。

皇帝が不道徳な命令をしたら臣下は拒否できるのです。

実際太皇太后は枋得に何度も元にもと降伏するようにと手紙を書いています。

しかし枋得はこの命令は正しくないとして従っていないのです。

日本人はこの謝枋得に相当の違和感を覚えると思います。

彼は部隊長でありながら部下を見捨てて逃亡しています。

日本人にとって戦友とは「同じ釜の飯を食った」仲間です。

前にも書きましたが、古代の日本人は「同じ釜の飯を食った」仲間を一族と考えていたのです。

ところがチャイニーズにはそんな意識はありません。宗族という男系の先祖を同じくする一族が一番大事なのです。

その中でも親は格別です。

また、日本人は君臣関係をお互いが相手に義務を負った一種の契約関係だとは思っていません。

主君と臣下の一緒に働く仲間で「同じ釜の飯を食う」一族と同じような感覚です。

一方チャイナでは君臣関係は一族のような曖昧な関係ではありません。

お互いに天を最高の存在とした思想の体系の中に自分と相手の位置が決まっている関係です。

結局日本人は謝枋得が理解できませんでした。今までの五人(屈原、諸葛孔明、陶淵明、顔真卿、文天祥)は日本人も理解できます。

だから今でもこの五人は日本人も知っています。

しかし謝枋得は理解できなかったために今では忘れられています。

もっとも幕末の日本人には「靖献遺言」という本自体が有名でしたから、勤皇の志士たちも謝枋得は知っていました。

そして違和感を覚えながらも評価していました。

だから彼が作った「初めて建寧に至りて賦する詩」も詩吟になりよく歌われていました。これが彼の遺言です。

この詩も有名(だった)ので暇な人は詠んでください。

雪中の松柏 いよいよ青青(せいせい)、
綱常を扶植するは此の行に在り。
天下久しく リュウ勝の潔き無く、
人間何ぞ獨り 伯夷のみ清からんや。
義高くしてすなはち覺る 生は捨つるに堪へ、
禮重くしてまさに知る 死の甚だ輕きを。
南八 男兒にして終に屈せず、
皇天の上帝 眼 分明なり。

第七巻は元の時代の劉因です。

劉因(りゅういん 1249~1293)は北京の近くの保定の出身です。

ここは古代からチャイナの領土でしたが、10世紀初めに契丹人の支配下に入り、その後満州族・モンゴル族と北方騎馬民族の支配が続いていました。

劉因はモンゴル人の支配する元の領内で生まれたわけです。

若い時から優秀な儒教の学者として有名だったので、元の皇帝であるフビライから自分に仕えよという命令がありました。

劉因は一旦出頭して役人に任命されましたが、母親が年老いていることを理由に直ぐに辞職し俸給は全く受けませんでした。

その後は病気を理由に二度と元には仕えませんでした。

彼は夷狄であるモンゴル人の王朝は正統とは認めないと面と向って主張したわけではありません。

従ってフビライも劉因が自分に仕えない本当の理由を知らずに始終彼には好意的でした。

劉因は「燕歌行」という詩を作っています。これが彼の遺言です。

その内容は下記です。

燕という地は昔からのチャイナなのに長い間他国に奪われている。そのために吹く風も物悲しい。私は燕歌を寂しく歌っている。
燕の隣は斉の地だがここも他国となってしまった。
かつては管仲や楽毅といった優秀な人材や孔子、孟子などの聖賢がいたが今はそんな者はおらず、無知な民衆が平和を楽しむ希望を持てないでいる。

チャイニーズはチャイナの道徳を持っていない異民族を夷狄(野蛮人)として差別しています。

そして朱子学では夷狄の建てた王朝は絶対に正統だとは認めないのです。

浅見絅斎は朱子学者ですから、夷狄の王朝を正統と認めずそれに仕えなかった劉因を賞賛して「靖献遺言」に載せました。

絅斎は17世紀後半の人で、明が崩壊し夷狄である満州人がチャイナに清を建てた直ぐあとの時代の人です。

当時の日本人の儒者はチャイナが夷狄の支配する「動物の国」になってしまったから、儒教が正しく行われているのは日本だけだと考えたのです。

絅斎も日本は夷狄ではなく儒教の行われている国だと考えました。

また天皇家のみを日本の正統な支配者としていましたから、江戸幕府を夷狄が作った政府と考えていました。

つまりチャイナと北方の夷狄の関係を日本に持ち込んで、文化的な京都に対して江戸は夷狄の地だとしたのです。

絅斎は、日本人に向って夷狄の政府である江戸幕府は正統でないからそれに仕えてはならないと暗に主張しているのです。

ところが一般の日本人には、日本の中に文明の中心である京都の朝廷と野蛮人である夷狄の区別があるという感覚はありません。

一部の朱子学者が勝手に作り上げたフィクションだからです。

従って劉因の行動がピンと来ないのでほとんど注目されませんでした。

第八巻は明の方孝孺です。

方孝孺(ほうこうじゅ 1357~1402)は明の初めの人です。

元を滅ぼして明を建国した洪武帝は、まだ若かった方孝孺を見て気に入りました。

そして「彼の才能を充分成熟させた上で皇太子を補佐させよう」と言い一旦かれを郷里に帰しました。

それから16年して洪武帝がなくなりましたが、皇太子はその前に亡くなっており孫が即位して建文帝となり、方孝孺はその側近となりました。

光武帝の四男で建文帝の叔父にあたる燕王が反乱を起こし、1402年建文帝を打ち破って即位しました。

これが永楽帝です。永楽帝は非常に優秀な君主で父親の光武帝からもその才能を愛されていた人物です。

永楽帝は方孝孺を呼び出して自分の即位の詔書を書かせようとします。

しかし方孝孺はそれを拒否し「燕賊簒位」と書きました。

燕王であった永楽帝は皇帝の位を奪った賊だと書いたのです。

永楽帝は何とかして有名な儒者である方孝孺に詔書を書かせようとしていうことを聞かなければ一族を殺すと脅かしました。

そして方孝孺の一族や母の一族、妻の一族など800人以上を彼の目の前で殺しましたが、方孝孺はいうことを聞きませんでした。

そして最後に方孝孺自身もはりつけにされ、刀で口の両側を耳まで切り裂かれて死んでしまいました。

方孝孺は死ぬ前に「絶命の辞」を書いて永楽帝を非難していますが、これが彼の遺言です。

永楽帝が甥を殺して皇帝になったのは、野蛮人である夷狄がチャイニーズの王朝を滅ぼしたわけではありません。

一族内のお家騒動のたぐいです。

朱子学では臣下が位を簒奪して皇帝になってもそれを正統とは認めていません。

永楽帝は皇帝の叔父ではあっても燕王であって皇帝の家来でしたから、簒奪には違いありません。

それでこの簒奪を認めなかった方孝孺の行動は正しく、この道徳を守るために命を投げ出したのですから立派です。

浅見絅斎は、日本人も見習うようにと方孝孺を「靖献遺言」に載せました。

しかし一般の日本人はチャイニーズが作り上げた「正統」という概念が正しいか否かを考えるより前に彼らの残酷さに吃驚しました。

殺すほうもそうなら、自分の正しさを守るために妻子や一族800人以上が殺されてもそれを見過ごした方孝孺の態度のほうも薄気味悪く感じたのでした。

結局方孝孺は日本人には受け入れられていません。

靖献遺言を読もうと思いましたが、武蔵野市の図書館には蔵書がありませんでした。

麻布にある都立図書館にはさすがに12冊ありました。

そのうち4冊は明治時代に発行されたもので、1冊が大正時代、6冊は昭和14年~16年のものでした。

これらは古い本なので貸し出し禁止でした。

戦後発行されたものは1987年に発行された「靖献遺言講義」1冊だけでした。

著者の近藤啓吾教授は大正10年生まれで、40年以上山崎闇斎や浅見絅斎を研究し続けた方です。そしてこの本の定価は1万円です。

要するに戦後は、「靖献遺言」が完全に無視され忘れられているということです。

幕末の武士達を熱狂させ明治維新を実現させたこの重大な本が、今無視されて誰も知る人がいないということに先ず驚きました。

そしてこの靖献遺言が幕末にどれぐらいの影響力を持っていたのかということに興味が出てきました。

勿論この本が何冊発行され、何人が読んだかというデータなどあるはずがありません。

幕末の記録や小説を読んでいると勤皇の志士たちの会合ではよく詩吟が歌われていますが、靖献遺言の詩を吟じているのが多かったのです。

この事実に着目すると色々の辻褄が合ってくるのです。

江戸時代は標準語など無く、各地方の方言が今よりはるかにきつかったので、江戸や京都で地方出身の武士同士の話が通じなかったそうです。

そこで心得のある武士は謡曲を学びました。よその地方の武士とは謡曲という共通語で話をしたのです。

また江戸の吉原という遊郭の女郎は「ありんす」言葉を話していました。

田舎の貧しい娘が方言丸出しでしゃべったら客が逃げてしまいますから、吉原語という遊郭限定の共通語を作ったのです。

ペリーがやってきて日本中がてんやわんやになる前でも各藩の勤皇思想に染まった儒者たちは互いに交流していました。

彼らは漢文の読み下し文になれていましたから、これで話をしたのでした。

幕末動乱の時代の前に勤皇の志士たちの共通語は出来ていたのでした。

そもそも20歳ぐらいでひと暴れしようと上京してきた田舎侍が方言以外の言葉を話せるわけがありません。

私はアメリカ人の同僚達と日本にビジネスによくやってきました。

昼間は通訳を入れて仕事の話をしましたが、夕方になると日本側がそわそわし始めます。

接待しなければいけないのですが言葉が通じないので、お互いに気まずい思いになるのではないかと心配しているのです。

そこで私は助け舟を出しました。

夕食はアメリカ人だけでするから、その後日本人と合流して銀座のクラブへ行こうと提案したのです。

クラブの女の子達は片言の英語を話します。そして最後はカラオケで仕上げをするのでした。

これと同じことが幕末でも行われていたのです。

お互いに言葉の通じない田舎侍どうしの会合の時は芸者を呼んで間を持たせました。

彼女達は商売ですから長州弁も薩摩弁も水戸弁も話せて座を持たせたのです。

江戸時代の各藩はお互いに対抗意識が強烈で相手をまるで信用していませんでした。

そこで靖献遺言の詩を歌うとお互いの一体感がでてきて座が和やかになったのです。

私もかつては、このような政治的陰謀を打ち合わせする会議に芸者などを呼ぶのはどうにも納得できませんでしたが、こういう事情があったのです。

これは日本人の伝統になったようです。

昭和の初めでも右翼将校や非合法の共産党員のクーデター計画打ち合わせの会合に芸者を呼んだり大声で歌を歌って周囲の注目を集めています。

また、詩吟で自分達の思想的立場を表明するということが確立していきました。

これも日本人の伝統になりました。

明治時代の乃木希典や伊藤博文などの作った詩も詩吟になっています。

このように詩吟が幕末の武士達の常識になることによって、靖献遺言は日本中の武士達に浸透していきました。

また詩を作るときも靖献遺言の詩の一部を借用すれば、読み手は直ぐに理解できました。

やはり靖献遺言の影響は絶大だったのです。

靖献遺言を読んでいくことにより、浅見絅斎の思想に誘導されていきます。

武士たるものは正統な君主のために命までも犠牲にしなければならず、主君や周囲に評価されることを見返りに求めてはならないという考えが全巻に流れています。

正統な君主とは昔から続いている家系のものを指し、武力で帝位を簒奪したものは正統とは認めないとしています。

この考えは諸葛孔明、陶淵明や顔真卿の巻で強調されています。

また異民族である野蛮な夷狄の建てた王朝は正統なものでないからそれに仕えてはならず積極的に滅ぼさなければならないと教えています。

この考えは文天祥、謝枋得、劉因の巻で強調されています。

また従来の日本人が持っていなかった道徳観も教えています。

主君より親や一族という宗族の利益を優先しなければならないという考え方は謝枋得の巻で強調されています。

また同じ王朝内でも傍系が武力で帝位を簒奪することはいけないという考え方は方孝孺の巻で強調されています。

しかしこれらの従来無かった道徳を日本人に植えつけようとした浅見絅斎の目論見ははずれてしまいました。そして謝枋得、劉因、方孝孺は忘れられてしまいました。

この浅見絅斎の思想から当時の日本を見てみると、正統な支配者は神話の時代から続いている天皇家だけということになります。

絅斎は、江戸幕府は夷狄の王朝であり正統ではないと考えていました。

しかしこの考えに一般の日本人は納得せず、江戸幕府を打ち倒さなければならないとは考えていませんでした。

ところがペリーがやって来て軍艦で日本を脅かしたので、日本人はいやおう無く夷狄の存在に気づかされました。

そして夷狄の脅しに屈した江戸幕府は夷狄の仲間で国を売るものだという考えが広まっていきました。

このときになって江戸幕府は夷狄の王朝であり打ち倒さなければならないという絅斎の思想に火がついたわけです。

こうなると日本人は全て正統な支配者である天皇の家来であるから、命を捨てて天皇家の権力の復活のために戦わなければならないと考えられるようになったのです。

絅斎の師である山崎闇斎は儒教の「誠」を我流に解釈してしまいました。

本来は「礼楽」のような外観から判断できる基準によってその正しさをチェックしなければならないものです。

それを自分の心を正しくするために一所懸命に修養した結果えられた結論は、宇宙のルールと一致すると考えたのです。

逆に自分が正しいと考えたことと現実が違えば現実を自分の考えに合わすように行動を起こさなければならないとしたのです。

山崎闇斎の弟子である絅斎は「誠」に関する師の考えを引き継ぎました。

自分が正しいと思ったことを自分の外側にある基準に照らしてチェックしなくても良く、その実現に努めるべきだと考えたのです。

現実の法を犯しても自分が正しいと思ったことをしなければいけないという考えです。

当時の日本は天皇が徳川を征夷大将軍に任命し、各大名は将軍の家来で、薩摩や長州の侍は大名の家来という法的な関係になっていました。

天皇が江戸幕府を正しくないと考えれば、各大名に幕府打倒を命令し、それを受けた大名が藩士に戦いを命じるというのが合法的です。

ところが絅斎の思想に染まった長州の侍は、殿様の派遣した軍隊と戦って自分達の要求である攘夷討幕の方針を貫いています。

土佐の侍達は殿様を無視して尊皇攘夷政府を作ったり、脱藩したりしています。当時脱藩は死刑になるほどの重大犯罪だったのです。

西郷隆盛は意見の合わなかった島津久光を「地五郎(田舎者)」と罵声を浴びせています。

また、討幕など考えていなかった久光の意向を無視して幕府を倒しました。

従来の法体系が崩れた無法状態で明治維新がなされたのです。

最後に再度強調しましが、絅斎はチャイナの思想を巧妙にすり替えています。

チャイニーズの八人は特定の王朝の家系に忠誠を尽くしているわけではありません。

チャイナの正義という抽象的なものに絶対的な価値を見出して、それを命がけで守っているのです。

チャイナの正義は天から指名を受けた天子を中心にした道徳的な体系です。

だから結果的に八人の忠誠の対象もチャイナの基準で正統と認められた王朝に忠誠を尽くすという形になっただけです。

一方絅斎は日本では天皇家だけが日本の正統な支配者だとし、天皇家という特定の家系に忠誠を尽くさなければならないという意味に変えているのです。

そして天子は天から道徳的な政治をするように命じられているというチャイナの儒教の基本的な原則には触れていません。

ここから天皇家という特定の家系を絶対視する「現人神」の思想が生まれてきたのです。


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